かいて、かんがえる

関西の大学4年生。かく練習とかんがえる練習をかねて。

バニエの言葉2:"喪"

「喪」という言葉も、バニエの著作の中で印象的な使いかたをされている。

日本語における「喪」は「1.死者を弔う儀礼/2.なくす・失う」という意味があるが、

バニエの意味に近いのは「なくす・失う」であろう。

「精神、心を満たし、目覚めさせ、エネルギーを豊かに与えるところ、活き活きさせるところのものを失うことは「喪」と言えるでしょう。」とバニエは書く。

そして「喪に服す」とは喪失を受け入れるということである。

 

 

パンと薔薇

http://www.ele-king.net/columns/regulars/anarchism_in_the_uk/004681/

 
ブレイディみかこ氏の記事で知った「パンと薔薇」という言葉がずっと心に残っている。
パンは「最低限の生きる糧」で、薔薇は「生活を飾るもの・尊厳」だという。
もとは詩として生まれ、曲もつけられている。
人間の生に何が必要か、という話になりそうだけれど
やはりただメシを食べさせろということではないのだ。
 どんなメシを、誰と、どこで、どうやって食べるかという自由はすべての人に保証されるべきなのである。
ネグリが言ったように、生きるとは労働であり、この世に生を享けた以上、その生が保障されるのは当然だと思う。
そして、権利と義務はバーターではない。
茨木のり子の『もっと強く』にこうある。
 
"もっと強く願っていいのだ
わたしたちは明石の鯛がたべたいと"
 
遠慮や謙遜はいらない。
 
 
 
 
 

私たちはみんな断片的で

岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社)を読んだ。

筆者は、ライフヒストリー(生活史:ひとりの生い立ちや暮らしをインタビューする)を方法論としている社会学者だ。

 普通の人たちの、なんでもないような語りは、分析できないもの、大きな物語に組み込まれない断片である。わからなかったり、意味がないものに触れるとモヤモヤすることが多いけれど、この本はそんな断片的な語りを絶妙な具合に編集して自らも語る筆者ののスキルとあいまって、おもしろく読んだ。ところどころ「フフッ」と笑ってしまった。大阪弁だからか、宮本輝の小説を読んでいる時のようなおかしさを感じた。

 

 ポエムみたいだけど、いくつか思ったことを。

私たちはみんな孤独である。

私たちの人生は断片的である。

ひとつの物語のようで、そうではない。

ここに、「意味の無意味さ・無意味の意味」を見出す。

私たちは、どんな物語からも自由ではいられない。

分析できない語りを聞くのは、そのことを戒めるたよりとなるのかもしれない。

 

 

 

 

準備=想像?

楽天的というか、あまり将来のことを考えない性格である。

いきあたりばったりで、大学も終わりに近づいた今になって苦労している。

いくつか失敗の記憶はあるけれど、それは思ってもみなかったリスクの顕在化であることがほとんどだ。

成功とは、失敗しないことであるならば、失敗しない秘訣は、あらゆる失敗のシミュレーションし、それに対する行動を予想することで導かれるような気がしている。

バニエの言葉1:"Communion"

前記事に書いたけれど、バニエの始めたラルシュ(L'arche)とは「(ノアの)方舟」の意味で、やはり聖書からきた言葉だ。

バニエは大学で哲学と神学を専攻しており、ラルシュ設立においても友人のトマ・フィリップ神父が大きな役割を果たしている。バニエの思想の根底にはキリスト教への信仰がある。キリスト教への理解が浅い僕にはここが結構難しいところで、例えば用語の問題がある。

日本唯一のラルシュ・コミュニティー「かなの家」創立者である佐藤仁彦氏が訳したバニエの主著『あなたは輝いている』(一麦出版社)の中で、僕が一番重要だと感じているキーワードがフランス語の"Communion"である。この言葉は「交わり」や「キリスト教徒の生活」「聖餐」を意味しているが、佐藤氏はこれを「ひとつになる親しい交わり」と訳している。

僕はまだこの言葉を理解するまでに至っていない。

『あなたはー』には、「寛大」でも「教育」でも、「協力」でもなく、「相互」のものなのだ、ということが書いてあったけれど、なんだか「上下より対等」というメッセージよりも深く広い意味がこめられているように感じる。

なぜなら、原語の"Communion"は"Community"と同じ語源を持つはずで、「共同体」として「共に生きる」ことに関して重要な示唆を含んでいるはずと思うからだ。

 

「ひとつになる親しい交わり」の理解が、論文のひとつの目標になりそうだ。

 

 

ジャン・バニエという人

ここ数ヶ月、めったにないくらい勉強している。

卒業論文のためなのだけれど、テーマが難しい。

指導教官に教えられた、ある実践的な思想家を取り上げようと思っている。

ジャン・バニエという人だ。

この人は、障がい者と健常者が共に生活するコミュニティーをフランスではじめ、それにラルシュ(L'arche:「ノアの方舟」の意味)という名前をつけた。

この人の思想が注目されるべき大きな理由の一つが、健常者が障がい者を助けるという"上から下へ"ではなく、共に「人間らしさ」についての探求をおこなう共同体として

あるということだ。

それは素晴らしいけれどとても難しいことだと思う。

日本のような能力主義社会では、「〜できない」という「不」可能・「無」能力は認められづらい。そんな中で、「〜できない」人びとである、(と社会では考えられている)障がい者と共に生きる、彼らから学ぶという思想や実践は、なおさら認められづらいだろう。

しかし、障がい者を排除しない、もしくは彼らと健常者とが学び合うことのできる社会は、成員すべてにとって生きやすい社会だと思う。

少なくとも、すべての人間が歳をとる。

上野千鶴子が「齢(=弱い)を重ねる」と表現していたけれど、みんな、「〜できな」くなるかもしれないリスクを抱えているのだ。

 

弱者に対する共感を欠いた社会

自分が弱者になることへの想像力を欠いた社会

 はとっても恐ろしいと思う。

そんな社会から少しでも遠ざかるためにバニエを学ぼうと思う。

改めて「かきかた」を

小学生の頃、「かきかた」という科目があった。

硬筆の練習だ。

図形としてのひらがな・漢字を繰り返し書き取ることで身体に馴染んだ記号にする「かきかた」。

それから10年と少し経って僕は字を多少キレイに書けるようになった。

読める字は書けるようになったけど、文章はどうだろう。わかりやすくて読みやすい文章は書けているだろうか。

書くことはほとんどそのまま考えることだと思う。

キチンと書けるということは、キチンと考えられるということだと。

今さらになって、もっとそれらを練習していたらよかったと思う。

なので今さらになって、始めようと思います。